はじめに:健康の“出発点”はどこにあるのか?

「あなたの健康は、遺伝子コードよりも郵便番号に左右されるかもしれない。」

この印象的な言葉は、米国の公衆衛生学者ローレンス・ウォラック(Lawrence Wallack)によるものです。彼は2016年の論文で、健康格差の出発点が、社会的環境と生物学的環境の両方に根ざしていることを強調しました【Wallack & Thornburg, 2016】。

私たちの体は、遺伝子によってすべてが決まっているわけではありません。
むしろ、母体の栄養状態やストレス、社会的環境などが、遺伝子の“スイッチ”をどのように入れたり切ったりするか―つまりエピジェネティクス(epigenetics)が、将来の健康を大きく左右することが明らかになりつつあります。


胎児期に刻まれる「健康の設計図」:DOHaD理論とは

DOHaD(Developmental Origins of Health and Disease)理論は、
「成人期に発症する慢性疾患のリスクは、胎児期や乳幼児期の環境によって形成される」という考え方です。この理論を裏付ける研究の中でも有名なのが、「オランダ飢餓冬(Dutch Hunger Winter)」の疫学研究です。第二次世界大戦末期の飢餓により、胎児期に栄養不足を経験した人々が、成人後に糖尿病や肥満、心血管疾患を発症しやすくなっていたことが報告されました【Lopes et al., 2017】。胎児期の栄養やストレス環境が、DNAのメチル化やヒストン修飾といったエピジェネティックな変化を引き起こし、遺伝子の発現パターンを変化させる。この変化は一生続き、場合によっては次世代にも引き継がれることが分かっています。


「二重の打撃(Double Hit)」:社会と生物の連鎖

ウォラックらは、健康格差を「二重の打撃(Double Hit)」という比喩で説明しています。

第一の打撃:胎児期・乳幼児期の栄養不足やストレスにより、体が「厳しい環境」に適応するように設計されてしまう。
 第二の打撃:成長後に待ち受ける社会的逆境――差別、貧困、教育格差などが、すでに脆弱になった身体をさらに傷つける。

これらの二重の要因が重なることで、慢性疾患やメンタルヘルスの問題、社会的不平等が世代を超えて再生産されていくのです。


栄養と社会:どちらも「健康をつくる環境」

Lopesら(2017)は、妊娠期の栄養の過不足が胎児の将来の健康に及ぼす影響を、ヒトと動物モデルの両面から検証しています。

栄養不足(Under-nutrition)
 → 低出生体重やインスリン抵抗性、成人後の糖尿病リスクの上昇。
 → 妊娠中期の栄養不足は、気道発達に影響し呼吸器疾患リスクも増加。

過栄養(Over-nutrition)
 → 妊婦の高脂肪食や肥満は、胎児に高インスリン血症や脂肪沈着を引き起こし、将来的な肥満・糖尿病を誘発。
 → 栄養過多もまた、「次世代の健康リスク」を形づくる。

つまり、貧困や格差による**「栄養の偏り」**は、単に社会問題ではなく、生物学的に次世代へと引き継がれる健康リスクなのです。


上流へ向かう:社会政策としての「胎児期介入」

ウォラックは、公衆衛生の使命を「人々が健康でいられる条件を社会が保障すること」と定義しました。
そのためには、病気が起きてから治療する「下流」ではなく、病気の原因を生み出す構造に立ち向かう“上流(upstream)”の行動が必要です。

たとえば:

ウォラックはこう述べています。

「私たちは遺伝子を変えることはできない。しかし、遺伝子の“環境”を変えることはできる。」


終わりに:胎児期からの希望

DOHaDとエピジェネティクスの研究は、「不平等の生物学」を明らかにするだけでなく、希望の科学でもあります。
なぜなら、それは「環境を変えれば、次世代の健康を変えられる」ことを意味するからです。

社会的格差は、身体の中にまで刻み込まれます。
しかし、その逆もまた可能です。
やさしい社会環境、安心して出産・子育てができる街、つながりのあるコミュニティ――
そうした“上流”の取り組みこそが、未来の健康と幸福を形づくるのです。


参考文献

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